東金砂神社縁起
鎮座地:茨城県常陸太田市水府 天下野九七四0番地
祭神名:大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこのみこと)
境内:一万三千二百八十六坪
由緒
延暦二十五(八0六)三月(五月に大同と改元)平城天皇の勅願によって、宝珠上人が社殿を造営し祭壇を設けて、現在の滋賀県大津市坂本にある日吉神社(山王権現)の祭神の分霊を祭って、国家安泰、五穀豊穣の祈願所とした。翌大同二年(八0七)坂上田村麻呂が、蝦夷征伐の際、祈願のため多宝塔を建立した。
仁明天皇の承和年間(八三四-八四八)唐に渡って帰国した慈覚大師が、嘉祥二年(八四九)諸国巡拝の際当山に登った。山上からの眺めが、比叡山によく似ているので大師は二十一社の末社を移し祭り、なお羅漢堂を建て十六羅漢を安置した。
源頼義とその子義家は奥州征伐の際戦勝を祈願して、それぞれ太刀を奉納し、頼義はまた、治歴三年(一0六七)の大祭を自ら祭主となって執行し、そのとき柄太刀を奉納した。
佐竹氏は、当社を祈願所と定めて神領、千二百石を献じ、建保三年(一二一五)家紋扇を神社の紋章に使用することを許した。すなわち、当社の神紋は「丸に日の丸五本扇」である。応永二十一年(一四一四)十二月、火災にあって社殿を失い、同三十一年(一四二四)十二月、再建成って正遷宮を行った。
豊臣秀吉は検知の際、社領千二百石を寄進した。元禄年間(一六八八-一七四0)徳川光圀は、山上の僧坊二十一を除き、僧徒を退けて別当をおいた。
明治三十六年(一九0三)一月、火災にあって再度社殿を失ったが、同四十四年(一九一一)十一月再建した。境内の地積は一万三千二百八十六坪で、一石一字の経塚が境内に残っている。祭礼は、二月十一日の嵐除災と、十二月十三日の金砂祭(かなさまち)と、七十三年目に一度執行される大祭礼(大田楽)とである。
宝物
水の玉、火の玉、天狗の爪、鬼の牙
太刀(源頼義献納)
太刀(源義家献納)
柄太刀(源頼義献納)
鬼面二個(作者、作成年代不明)
金仏一体(身長一一.五センチの立像)
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